Mag-log in 夜会を辞した頃には、帝都を包んでいた
この道は近道ではあるが、夜更けともなれば酔客やならず者が姿を見せることも珍しくない。
それを承知で選んだわけではない。ただ、軍服を脱いだ今夜くらいは、華やかな夜会も、取り繕った笑顔も、腹の内を隠して交わされる賛辞も、すべて遠ざけて静けさの中を歩きたかっただけだった。その歩みが、不意に止まる。
風向きが変わったのだ。 夜気へ幾つもの匂いが溶け込み、酒臭さと脂のような濁りを帯びた男たちの悪臭が鼻を
「……その女から離れろ」
決して大きな声ではなかった。
それでも、その一言だけで夜気は鋭く張り詰め、男たちは弾かれたように一斉に振り返る。 月明かりの中に立つ黒い影を認めた途端、その顔色は見る間に青ざめていった。「お、おい……」
「まさか……」誰かが震える声を漏らす。
彼は小さく息を吐き、壁際へ視線を向けた。
こちらを見返す若い女。 怯えた瞳。 震える肩。 けれど、その姿を認めた瞬間には、もはや彼の意識はそれを「誰か」として捉えてはいなかった。甘い。
胸の奥深くを静かに焼くような、あり得ないほど甘い香りが風に乗って届く。懐かしい。
しかし、知るはずがない。 初めて触れる香りであるはずなのに、ずっと昔から探し続けていたものへようやく辿り着いたような錯覚が胸を締めつける。思考が、ゆっくりとほどけていく。
目の前に立つ女が誰なのか。 なぜこんな場所にいるのか。 そんなことは、どうでもよかった。肩書も。
名も。 家柄も。 香り以外のすべてが、春霞の向こうへ溶けていく。ただ、この香りだけは逃してはならない。
それだけが、理性を失いかけた意識の奥で、燃えるように脈打っていた。やがて彼女がゆっくりと顔を上げ、月明かりを映した瞳が真っ直ぐこちらを捉えた、その瞬間。
胸の奥で、本能だけが静かに囁いた。
◇ ◇ ◇
頬が熱い。
指先が震える。 身体の奥深くで、これまで眠り続けていた何かが、春の雪あり得ない。
ほんの少し前まで、婚約者の裏切りに心を引き裂かれ、人の温もりなど二度と信じられないと思ったばかりなのに。男は何も言わない。
深く被った外套のフードがその素顔を覆い隠し、月明かりさえ彼の表情を映し出すことはなかった。恐ろしいはずだった。
見知らぬ男。 顔も、名も、何一つ知らない相手。 それなのに、目には見えない細い糸で引かれるように、その人のほうへ歩み寄りたくなる衝動だけが、胸の奥から静かに湧き上がってくる。不意に風が吹き抜け、二人の間を静かに通り過ぎた。
その瞬間、胸いっぱいに満ちたのは、花でも香木でもない、これまで一度として聞いたことのない香りだった。 冬の朝の空気のように澄み切っていながら、その清らかさとは裏腹に、凍えていた胸の奥を静かに溶かしてしまうほど温かく。 どれほど香道を学んできた麗香にも、その香りを表す言葉だけは見つからない。その香りに包まれた途端、身体からふっと力が抜けた。
崩れ落ちそうになった身体を、男が咄嗟に抱き留める。 その腕へ触れた瞬間、本能が大きく震えた。 まるで長い年月をかけて探し続けていた居場所へ、ようやく辿り着いたかのような安堵が胸いっぱいに広がり、涙がこぼれそうになる。そんなはずはない。
今日まで一度たりとも会ったことのない相手なのに。 どうして、こんなにも安心してしまうのだろう。男は麗香の身体を支えていた手を静かに離すと、低く落ち着いた声で一言だけ告げた。
「……もう大丈夫だ」
それだけ言い残し、
その背中を見送ればいい。
今夜の出来事は忘れ、屋敷へ帰ればいい。 頭ではそう理解している。けれど理性とは裏腹に、足は一歩、また一歩と前へ進み、まるで目には見えない糸で結ばれてしまったかのように、彼の背中だけを追い続けてしまう。
「……待って」
その声が自分の口からこぼれ落ちたことに、麗香自身が一番驚いていた。
男がゆっくりと振り返る。 フードの下の素顔が、見えないはずなのに、わずかに揺れたように思えた。「来るな」
短く告げられたその声には拒絶の響きがあった。
それでも二人の間へ流れる空気だけは、甘く、熱く、逃れようのない運命そのもののように静かに満ちていく。止まらなければならない。
こんなことは正気ではない。 見知らぬ男について行こうなど、亡き母が知ればきっと悲しむ。 それでも身体ではなく、心よりもさらに深い場所が、その人のそばへ行けと夜の帝都は静かだった。
月明かりだけが、言葉を交わすこともなく歩き始めた二つの影を、白く濡れた石畳の上へ細く長く映していた。◇
小鳥のさえずりが、遠く庭園の
ベッドから身を起こし、辺りを見回す。
見慣れない部屋だった。 洋館の一室らしい広々とした寝室は、華美ではない。 それでも調度の一つひとつには名家らしい品格が宿り、磨き込まれた木の香りが、朝の澄んだ空気へ静かに溶け込んでいた。「……ここは」
昨夜。
月明かり。 黒い外套。 そして――。温かな腕。
額へ落ちた柔らかな口づけ。 耳元で囁かれた低い声。 指先へ触れられるたび、胸の奥から熱が溢れ、自分でも信じられないほど素直にその温もりを求めてしまったことだけが、夢とも「……っ」
違う。
そんなことはあり得ない。 初対面の男に、自分から寄り添うなど。 亡き母に教えられてきた
思い出そうとするほど、記憶は
震える指先で首筋へ触れる。
小さな痛みが走った。 嫌な予感に胸を締めつけられながら、ベッドを降りて鏡台の前へ歩み寄り、恐る恐る自らの姿を映す。白い首筋には、鮮やかな紅色の印が二つ。
それは誰が見ても、一夜の契りを物語る「……そんな」
鏡の中の自分が、ひどく遠い。
夢だったと思いたい。 昨夜のすべてが悪い夢だったと、自分へ言い聞かせたい。 けれど首筋へ残されたその印だけは、残酷なほど鮮明に、あの夜が幻ではなかったことを静かに告げていた。初夏の陽射しが、御影家の庭に濃い緑の影を落としていた。 枝垂れ桜はとうに花を散らし、今は瑞々しい葉を風に揺らしている。季節が移ろうにつれ、屋敷の中を吹き抜ける風にも少しずつ夏の気配が混じり始め、麗香は朝の涼しいうちに窓を開け放つのが楽しみになっていた。 その日も、午前の用事を済ませて居間へ戻ったところで、志乃が一通の封書を持ってきた。「奥様。こちらをお預かりしております」 「私に、ですか?」 「はい。旦那様から、奥様にも目を通していただくようにと」 封を開けば、中には上質な厚紙に印刷された招待状が収められている。 そこには、華族会館で初夏の慈善夜会を催す旨が、格調高い文面で記されていた。 主催は、華族の夫人たちを中心とした慈善団体である。貧しい家庭の子女への教育支援や、戦争で一家の働き手を失った人々への援助などを目的として、毎年この時季に夜会を開いているのだった。「……華族会館」 口にすると、胸の奥に微かな痛みが走った。 慎太郎と珠緒の裏切りを知った夜。 煌びやかな灯りも、優雅に流れる音楽も、今となっては遠い昔のことのように思える。けれど、あの場所で味わった絶望だけは、そう簡単に忘れられるものではなかった。「奥様?」 志乃が心配そうに顔を覗き込む。「……いいえ。何でもございません」 麗香は小さく首を振った。 あの夜から、随分多くのことが変わった。 桐生家を離れ、御影家へ嫁ぎ、小夜という愛らしい義妹を得た。そして何より、朔という人を知った。 今の自分は、あの夜の自分とは違う。 そう思うと、不思議と心が落ち着いた。「朔様は、こちらへご出席なさるおつもりなのでしょうか」 「旦那様からは、奥様のご意向も伺うようにと申しつかっております」 「私の……」 麗香はもう一度、招待状へ目を落とした。 御影家の当主夫妻として、揃って出席することを求められているのだろう。軍の要職にある朔にとっても、華族たちとの交流は無視できないもののはずだった。 それでも、朔は麗香の意思を確かめようとしている。 そのことが、嬉しかった。「では、朔様がお戻りになってから、ご相談いたします」 「かしこまりました」 志乃が一礼して退室する。 麗香は招待状を卓へ置き、窓の外へ目を向けた。 風が吹いている
翌朝。 朝食を終えた小夜は、女学校へ出かける支度を済ませても、なかなか席を立とうとしなかった。「……兄様」 やがて、小夜が朔を呼んだ。「昨日のお話ですけれど……お断りしてくださいませ」 静かな声だった。 迷いがないわけではないのだろう。それでも、昨夜よりずっとはっきりしていた。「決めたか」「はい」 小夜が頷く。「私、もう少し学びたいです。今の女学校を出たあとも、できることなら、その先へ進んでみたいと思います」「分かった」 朔の返事は、それだけだった。「……それだけですの?」「他に何がある」「もう少し、何か……本当によいのか、とか」「昨夜聞いた」「そうですけれど」 小夜が拍子抜けしたような顔をする。 麗香は思わず微笑んだ。「朔様は、小夜さんのお気持ちがお決まりになれば、それでよかったのでしょう」「ああ」「ほら」「兄様は、こういう時くらい、もう少し妹を励ますお言葉などございませんの?」「自分で決めたのだろう。なら、それでいい」 朔は新聞を開き直す。「先方には俺から丁重に断っておく。お前は学校へ行け」「……はい」 小夜は少しだけ口を尖らせたものの、その顔には安堵が浮かんでいた。◇「今日、学校で聞いてみましたの」 その日の午後。 女学校から帰った小夜は、いつものように麗香と教本を開きながら、嬉しそうに話した。「卒業したあとも学べるところについて、先生に伺ってみました。文学をもっと学べるところも、外国語を学べるところもあるそうです」「まあ。もうお尋ねになったのですね」「はい。でも、お友達には驚かれてしまいました」
御影家へ帰ってきた翌日。 軍務を終えた朔は、夕刻の庁舎を出た。 空にはまだ明るさが残り、西へ傾いた陽が煉瓦造りの建物を赤く染めている。 迎えの自動車へ乗り込む。 窓の外を流れていく帝都の街並みを眺めながら、朔は無意識に右手を握った。 旅先で、滝江の家から出てきた後の。 あの時の麗香の重みを、まだ腕に覚えていた。 ――香は、しなかった。 以前の自分なら、それを意識したはずだった。 麗香は自分の番ではない。 探している女ではない、と。 だが、あの時はそんなことを考えもしなかった。 麗香が自分を頼った。 そして自分は、その麗香を抱き寄せたいと思った。 その「それだけ」が、朔にはひどく大切なことのように思えた。 父と母の間には、誰より強い契りの香と、番という絆があった。 それでも母は、幸せではなかった。 ならば、香がなくとも、自らの意思で誰かへ手を伸ばすことの方が、よほど――。「……」 そこまで考えて、朔は眉間を押さえた。 本当はもう、答えなど出かかっているのかもしれなかった。
その夜。 旅の疲れもあって、麗香はいつもより早く床へ入るつもりでいた。 入浴を済ませ、寝間着へ着替え、鏡台の前で髪を梳いていると。 こん、こん。 扉を叩く音がした。「はい」「麗香姉様。まだ起きていらっしゃいます?」「小夜さん?」 扉を開ける。 そこには、すでに寝間着へ着替えた小夜が立っていた。 長い髪も就寝用にゆるくまとめられている。「今夜、こちらで一緒に休んでもよろしいですか?」「……私と?」「はい」 思いもよらない申し出だった。 けれど、小夜はもう麗香の返事など決まっていると思っているらしく、嬉しそうに微笑んでいる。「駄目です?」「いいえ。駄目ではございませんけれど」「よかった」 小夜が部屋へ入ってくる。 麗香は扉を閉めながら尋ねた。「でも、どうして急に?」「だって」 小夜は寝台へ目をやった。「兄様とは、旅先でご一緒にお休みになったのでしょう?」「――なっておりません!」 思わず大きな声が出た。 小夜が目を丸くする。「まあ」「まあ、ではございません。お部屋は別々でした!」「そうなのですか?」「当然です!」「ご夫婦ですのに?」「朔様は、そのようなことを勝手になさる方ではございません!」 言い切ってから、麗香は、はたと気づいた。 小夜がにこにことこちらを見ている。「……何です?」「麗香姉様は、本当に兄様のことをよく分かっていらっしゃるのだなと思いまして」「それは……」 麗香は言葉に詰まった。「ともかく、別々のお部屋でした」「では」 小夜は満足そうに頷いた。「麗香姉様と一緒
帝都へ戻る汽車が停車場へ滑り込んだ時には、すでに午後の日も傾き始めていた。 扉が開く。 途端に、懐かしい喧騒が押し寄せてきた。 荷を運ぶ赤帽の声。 行き交う人々の靴音。 汽車が吐き出す白い蒸気に、石炭の匂い。 つい数日前にここから旅立ったばかりだというのに、麗香には随分久しぶりのように思えた。「では、僕はここで」 停車場を出たところで、清雅が足を止めた。「御影家へは寄られないのですか?」「ああ。僕まで帰宅についていったら、小夜ちゃんに『清雅様はご自分のお家がございませんの?』とでも言われそうだからね」「言いそうだな」「否定してくれないのかい?」 朔は答えなかった。 麗香は思わず笑う。「清雅様。この度は、本当にありがとうございました」「礼にはまだ早いよ。分かったことより、分からないことの方が多いからね」 清雅の言うとおりだった。 母が少女の頃、どのように笑っていたのか。 香が好きだったこと。 少しばかりお転婆だったこと。 そして、自分と同じように、人には分からない香を持っていたらしいこと。 知ることのできたものは多い。 けれど、その生まれも、本当の名も、なぜ桐生家へ嫁ぐことになったのかも、まだ分からないままだ。「調べておくよ。何か分かったら知らせる」「頼む」「では麗香さん。また近いうちに」「はい。お気をつけて」 清雅が人混みの向こうへ消えていく。 その姿を見送ってから、麗香は隣を見た。「俺たちも帰るぞ」「はい」 帰る――というその言葉が、不思議なくらい自然に胸へ落ちた。◇ 御影家の自動車が門をくぐる。 見慣れた庭。 見慣れた玄関。 初夏の日を浴びた木々の緑も、出発した時と何も変わっていない。 自動車が止ま
滝江の家を出ると、初夏の日差しが眩しかった。 麗香は目を細める。「麗香」 探すより先に、声がした。 顔を上げると、少し離れた木陰に、朔が立っていた。 その隣には清雅もいる。「……朔様」 名を呼んだ途端、胸の奥で張りつめていたものが、ふっと緩んだ。 朔がこちらへ歩いてくる。「終わったか」「はい」「そうか」 それだけだった。 何を聞いたかも、何が分かったかも。 朔は、何一つ尋ねなかった。 きっと、麗香が自分から話すまで待ってくれるのだ。 そう思ったら――。「朔様」「何だ」 麗香は一歩、彼へ近づいた。「少しだけ……」 そこまで言って、言葉が止まる。 どうしてほしいのか、自分でも、うまく言えなかった。 ただ。今は、この人の近くにいたい。 気づけば、麗香は朔の胸へ額を預けていた。「……麗香?」「申し訳ございません」「なぜ謝る」「分かりません……」 朔の身体が僅かに強張っている。 けれど、麗香を押し返しはしなかった。「……肩を抱いてもいいか」 低い声が、頭の上から落ちてきた。 麗香は目を閉じた。「……はい」 今度は、迷わなかった。 背へ腕が回る。 ゆっくりと、壊れ物でも扱うように。 麗香も、朔の着物をそっと掴んだ。 温かい。「……少し、このままで」「ああ」 朔の腕に、ほんの少しだけ力が籠もった。 麗香は目を閉じた。 母が何を望んでいたのかは、まだ分からない。 けれど、母が自分を愛してくれたことだけは分かる。 そして今、自分が何を望んでいるのかも。 少なくとも、この瞬間だけは分かっていた。「……そろそろ、僕の存在を思い出してもらってもいいかな」「――っ」 麗香は勢いよく朔から離れた。 少し離れたところで、清雅が困ったように笑っている。「すまないね。できればもう少し空気を読んでいたかったんだけど」「清雅」「はいはい。睨まないでくれ」 麗香は顔が熱くなるのを感じた。「も、申し訳ございません、清雅様……!」「麗香さんが謝ることじゃないよ。むしろ僕が邪魔をした側だから。――それで」 清雅の表情が少しだけ真面目になる。「聞きたいことは聞けたかい?」「……はい」 麗香は頷いた。「すべてではございません。でも、母がどのような娘だった







