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第2話 夜香の契り

Author: 板野かな
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-26 23:06:46

 夜会を辞した頃には、帝都を包んでいた霞かすみもいくらか薄れ、春の名残を宿した月明かりが、人影の絶えた石畳へ静かに白い光を落としていた。

 彼·は黒い外套コートの襟をわずかに引き寄せながら、華族会館から離れた裏路地を一人歩いていた。

 この道は近道ではあるが、夜更けともなれば酔客やならず者が姿を見せることも珍しくない。

 それを承知で選んだわけではない。ただ、軍服を脱いだ今夜くらいは、華やかな夜会も、取り繕った笑顔も、腹の内を隠して交わされる賛辞も、すべて遠ざけて静けさの中を歩きたかっただけだった。

 その歩みが、不意に止まる。

 風向きが変わったのだ。

 夜気へ幾つもの匂いが溶け込み、酒臭さと脂のような濁りを帯びた男たちの悪臭が鼻を掠かすめる。

 その奥には、怯えを押し殺しながら息を潜める女の気配が、細い糸のようにかすかに漂っていた。

 追い詰められた獣だけが放つ、張り詰めた静けさだった。

 彼·は何も言わず視線を上げる。

 細い路地の先では、数人の男が一人の女を煉瓦れんがの壁際へ追い詰め、逃げ道を塞ぐようにゆっくりと距離を詰めていた。

 そのうちの一人が腕を伸ばしかけた瞬間、彼は静かに口を開く。

「……その女から離れろ」

 決して大きな声ではなかった。

 それでも、その一言だけで夜気は鋭く張り詰め、男たちは弾かれたように一斉に振り返る。

 月明かりの中に立つ黒い影を認めた途端、その顔色は見る間に青ざめていった。

「お、おい……」

「まさか……」

 誰かが震える声を漏らす。

 彼·は何も言い返さず、一歩だけ前へ出た。

 軍人らしい無駄のないその歩みだけで十分だった。男たちは互いの顔を見合わせると、蜘蛛の子を散らすように路地の闇へ逃げ去り、ほどなく辺りには春の夜の静けさだけが戻ってくる。

 彼は小さく息を吐き、壁際へ視線を向けた。

 こちらを見返す若い女。

 怯えた瞳。

 震える肩。

 けれど、その姿を認めた瞬間には、もはや彼の意識はそれを「誰か」として捉えてはいなかった。

 甘い。

 胸の奥深くを静かに焼くような、あり得ないほど甘い香りが風に乗って届く。

 懐かしい。

 しかし、知るはずがない。

 初めて触れる香りであるはずなのに、ずっと昔から探し続けていたものへようやく辿り着いたような錯覚が胸を締めつける。

 思考が、ゆっくりとほどけていく。

 目の前に立つ女が誰なのか。

 なぜこんな場所にいるのか。

 そんなことは、どうでもよかった。

 肩書も。

 名も。

 家柄も。

 香り以外のすべてが、春霞の向こうへ溶けていく。

 ただ、この香りだけは逃してはならない。

 それだけが、理性を失いかけた意識の奥で、燃えるように脈打っていた。

 やがて彼女がゆっくりと顔を上げ、月明かりを映した瞳が真っ直ぐこちらを捉えた、その瞬間。

 胸の奥で、本能だけが静かに囁いた。

 見·つ·け·た·。

◇ ◇ ◇

 麗香れいかは、突然現れた黒い外套の男をただ見つめていた。

 助かった――本来なら、そう思うべきだった。

 けれど彼が一歩近づいただけで、冷え切っていたはずの身体は不自然なほど熱を帯び、胸の鼓動は自分でも恐ろしくなるほど速くなっていく。

 頬が熱い。

 指先が震える。

 身体の奥深くで、これまで眠り続けていた何かが、春の雪解どけのように静かに目を覚まし始めていた。

 あり得ない。

 ほんの少し前まで、婚約者の裏切りに心を引き裂かれ、人の温もりなど二度と信じられないと思ったばかりなのに。

 男は何も言わない。

 深く被った外套のフードがその素顔を覆い隠し、月明かりさえ彼の表情を映し出すことはなかった。

 恐ろしいはずだった。

 見知らぬ男。

 顔も、名も、何一つ知らない相手。

 それなのに、目には見えない細い糸で引かれるように、その人のほうへ歩み寄りたくなる衝動だけが、胸の奥から静かに湧き上がってくる。

 不意に風が吹き抜け、二人の間を静かに通り過ぎた。

 その瞬間、胸いっぱいに満ちたのは、花でも香木でもない、これまで一度として聞いたことのない香りだった。

 冬の朝の空気のように澄み切っていながら、その清らかさとは裏腹に、凍えていた胸の奥を静かに溶かしてしまうほど温かく。

 どれほど香道を学んできた麗香にも、その香りを表す言葉だけは見つからない。

 その香りに包まれた途端、身体からふっと力が抜けた。

 崩れ落ちそうになった身体を、男が咄嗟に抱き留める。

 その腕へ触れた瞬間、本能が大きく震えた。

 まるで長い年月をかけて探し続けていた居場所へ、ようやく辿り着いたかのような安堵が胸いっぱいに広がり、涙がこぼれそうになる。

 そんなはずはない。

 今日まで一度たりとも会ったことのない相手なのに。

 どうして、こんなにも安心してしまうのだろう。

 男は麗香の身体を支えていた手を静かに離すと、低く落ち着いた声で一言だけ告げた。

「……もう大丈夫だ」

 それだけ言い残し、踵きびすを返そうとする。

 その背中を見送ればいい。

 今夜の出来事は忘れ、屋敷へ帰ればいい。

 頭ではそう理解している。

 けれど理性とは裏腹に、足は一歩、また一歩と前へ進み、まるで目には見えない糸で結ばれてしまったかのように、彼の背中だけを追い続けてしまう。

「……待って」

 その声が自分の口からこぼれ落ちたことに、麗香自身が一番驚いていた。

 男がゆっくりと振り返る。

 フードの下の素顔が、見えないはずなのに、わずかに揺れたように思えた。

「来るな」

 短く告げられたその声には拒絶の響きがあった。

 それでも二人の間へ流れる空気だけは、甘く、熱く、逃れようのない運命そのもののように静かに満ちていく。

 止まらなければならない。

 こんなことは正気ではない。

 見知らぬ男について行こうなど、亡き母が知ればきっと悲しむ。

 それでも身体ではなく、心よりもさらに深い場所が、その人のそばへ行けと囁ささやき続けていた。

 夜の帝都は静かだった。

 月明かりだけが、言葉を交わすこともなく歩き始めた二つの影を、白く濡れた石畳の上へ細く長く映していた。

◇

 小鳥のさえずりが、遠く庭園の梢こずえから聞こえてくる。

 厚手のカーテンの隙間から射し込んだ朝の光は、磨き上げられた寄木よせぎ細工の床へ淡く広がり、天井から下がる硝子ガラスのシャンデリアを静かに照らしていた。

 白い漆喰しっくいの壁には繊細な装飾が施され、窓辺には深い緑色のビロードの帳とばりがゆるやかに揺れている。

 ベッドから身を起こし、辺りを見回す。

 見慣れない部屋だった。

 洋館の一室らしい広々とした寝室は、華美ではない。

 それでも調度の一つひとつには名家らしい品格が宿り、磨き込まれた木の香りが、朝の澄んだ空気へ静かに溶け込んでいた。

「……ここは」

 掠かすれた声が漏れる。

 身体を起こそうとした、その瞬間だった。

 肩へ掛かっていた上質な羽織がさらりと滑り落ち、ひやりとした空気が素肌へ触れる。

 その感触に合わせるように、胸の奥で何かが揺れた。

 昨夜。

 月明かり。

 黒い外套。

 そして――。

 温かな腕。

 額へ落ちた柔らかな口づけ。

 耳元で囁かれた低い声。

 指先へ触れられるたび、胸の奥から熱が溢れ、自分でも信じられないほど素直にその温もりを求めてしまったことだけが、夢とも現うつつともつかぬ断片となって浮かび上がる。

「……っ」

 違う。

 そんなことはあり得ない。

 初対面の男に、自分から寄り添うなど。

 亡き母に教えられてきた慎つつしみも、華族の令嬢として守ってきた矜持も、昨夜の自分はすべて忘れてしまっていた。

 思い出そうとするほど、記憶は朝靄あさもやの向こうへ遠ざかる。

 ただ、身体だけが覚えていた。

 あの香りに包まれていた安心感を。

 あの腕の中では、世界中の悲しみさえ忘れてしまえそうだったことを。

 それが、どうしようもなく恐ろしかった。

 震える指先で首筋へ触れる。

 小さな痛みが走った。

 嫌な予感に胸を締めつけられながら、ベッドを降りて鏡台の前へ歩み寄り、恐る恐る自らの姿を映す。

 白い首筋には、鮮やかな紅色の印が二つ。

 それは誰が見ても、一夜の契りを物語る痕あとだった。

「……そんな」

 鏡の中の自分が、ひどく遠い。

 夢だったと思いたい。

 昨夜のすべてが悪い夢だったと、自分へ言い聞かせたい。

 けれど首筋へ残されたその印だけは、残酷なほど鮮明に、あの夜が幻ではなかったことを静かに告げていた。

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